中島飛行機株式会社
概要
沿革
大正6年5月「飛行機研究所」として創業.
大正7年5月「日本飛行機製作所」に商号変更.
大正8年12月「中島飛行機製作所」に商号変更.
昭和6年12月「中島飛行機株式会社」となる.
昭和20年4月「第1軍需工廠」となり事実上の国営化.
昭和20年8月「富士産業株式会社」に改称.
昭和25年5月解散.
各事業所の戦争体験記・回想録
市民らの回想.ただし上述の文献は除く.
凡例; ①文献名,②記事名,③著者名(所属),④記事内容,⑤補足事項.
東京工場/東京製作所
大正14年11月完成.昭和12年7月改称.
太田工場/太田製作所
昭和9年11月完成.12年7月改称.飛行機組み立て工場.15年4月以降陸軍機専用の組み立て工場となる.昭和20年2月10日のB-29による空襲と,同年2月16日の艦載機による空襲で大きな損害を出した.
②月光を設計した頃
③中村勝治(元中島飛行機太田製作所勤務)
④「二式陸偵」および「月光」の設計開発について.
③犬塚信(当時山形県立鶴岡中学校4年生)
④19年7月-20年4月.太田製作所での四式戦闘機「疾風」のリベット打ちなど.動員名簿も.
②勤労動員時代を語る 1 座談会
④当時の山形県立鶴岡中学校4年生による座談会.
②勤労動員時代を語る 2 嗚呼学徒動員
③五十嵐高之(当時山形県立鶴岡中学校教諭)
④19年7月-20年4月.太田製作所での勤労奉仕の引率.
②勤労動員時代を語る 4 学徒動員の憶い出
③佐藤義三郎(当時山形県立鶴岡中学校教諭)
④19年7月-20年4月.太田製作所での勤労奉仕の引率.
②勤労動員時代を語る 5 学徒勤労動員の側面
③菅原五八(当時山形県立鶴岡中学校教諭)
④19年7月-20年4月.太田製作所での勤労奉仕の引率.
②勤労動員時代を語る 6 動員時代のあれこれ
③藤本信雄(当時山形県立鶴岡中学校教諭)
④19年7月-20年4月.太田製作所での勤労奉仕の引率.
②勤労動員時代を語る 7 空襲の恐怖
③塚本智視(当時山形県立鶴岡中学校4年生)
④20年2月10日,16日の空襲などについて.
②月光から天山 そして彩雲へ
③大屋圭吉(元中島飛行機設計部)
④16年2月-17年春.太田製作所などで「月光」の設計など.
②35mm negative film roll with 37 exposures. Container says " Japan, Ota, Nakashima Airplane Plant, Etc., 1945"
④戦後すぐに太田製作所で撮影された写真37枚.四式戦「疾風」や「剣」などが写る.
武蔵野製作所・多摩製作所→武蔵製作所
昭和13年4月開設の陸軍向けエンジン組み立て工場である武蔵野製作所と,16年11月開設の海軍向けエンジン組み立て工場である多摩製作所は,18年11月武蔵製作所として合併.
③齊藤勉
④武蔵製作所の地下疎開工場である浅川工場について.
小泉製作所
昭和15年4月海軍機専用組み立て工場として開設.
②"月光"で体験した私の天国と地獄
③青木与(元中島飛行機小泉製作所勤務テストパイロット)
④16年1月-.「月光」の試験飛行.
②月光から天山 そして彩雲へ
③大屋圭吉(元中島飛行機設計部)
④17年春-18年夏.小泉製作所で「天山」「彩雲」の設計など
②橘花の機体を作る
③大坂荘平(元中島飛行機設計部)
④19年秋-終戦.小泉製作所での「橘花」試作機の機体の制作.
半田製作所
昭和18年1月海軍機専用組み立て工場として開設.
②月光から天山 そして彩雲へ
③大屋圭吉(元中島飛行機設計部)
④18年夏-終戦.半田製作所で「彩雲」夜戦化,雷装化の設計など
宇都宮製作所
昭和19年1月開設.四式戦「疾風」の生産を行った.
三鷹研究所
昭和19年夏開設.
写真資料
凡例; ①文献名,②記事名,③提供者・解説者名(所属),④記事内容,⑤補足事項.
文献資料
公文書や解説本.
凡例; ①文献名,②記事名,③著者名(肩書),④記事内容,⑤補足事項.